大判例

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東京高等裁判所 昭和62年(ネ)2009号 判決

控訴人

荒川艶子

右訴訟代理人弁護士

飯田伸一

坂本堤

被控訴人

秋山晃一郎

右訴訟代理人弁護士

平沼高明

堀井敬一

西内岳

右訴訟復代理人弁護士

木ノ元直樹

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。

事実

一  控訴代理人は、「原判決を取り消す。被控訴人は、控訴人に対し、九一九万三二〇〇円及びこれに対する昭和五五年一一月五日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決及び仮執行の宣言を求め、被控訴代理人は、主文第一項と同旨の判決を求めた。

二  当事者双方の主張は、次に付加、訂正するほかは、原判決事実摘示のとおりであるから、これを引用する。

1  原判決二枚目裏八行目、同三枚目表八行目、同裏六行目から七行目にかけて及び同五枚目裏九行目の各「昭和五〇年」を「同年」とそれぞれ改める。

2  同三枚目裏二行目の「昭和五〇年三月」を「同月」と、同四枚目表四行目の「瞳」を「瞳孔」と、末行の「同年八月」を「同月」と、同五枚目裏五行目の「昭和五〇年四月」を「同月」と、同六枚目裏一行目から二行目にかけて及び四行目の各「四月」を「同月」とそれぞれ改め、同表四行目の「三月」の前に「同年」を加える。

三  証拠関係〈省略〉

理由

一請求原因1の事実並びに被控訴人らは昭和五〇年二月二五日の初診時において控訴人の疾患を流行性角結膜炎と診断し、同日以降同年四月二日までの間控訴人に対しステロイドホルモン剤であるデキサメサゾンを投与したこと及び控訴人は同月一〇日佐藤医院に転医し、以後同医院及び国立相模原病院において、罹患していた角膜ヘルペスの治療を受けたことは、当事者間に争いがない。そして、〈証拠〉によれば、一般に、ステロイドホルモン剤の投与は、ヘルペスビールスの増殖を促進するため殊に表層型の角膜ヘルペスに対しては禁忌とされており、また、その連用により角膜ヘルペスを誘発することのあることが認められる。

二そこで、本件に関する被控訴人の診療行為と、控訴人の症状の推移について、まず検討する。

〈証拠〉を総合すると、次の事実が認められる。

1  控訴人(昭和一〇年一二月二五日生)は、昭和五〇年二月八日、九日ころ風邪を引いて勤めを休んだ後、左眼がぼやけちょっと刺すような痛みを感じたことがあった。その後痛みは薄らいだものの、左眼がぼやけ、かゆみ、異物感のある状態が続いたので、約二週間後の同月二五日被控訴人医院に赴き、山本医師次いで被控訴人(昭和二五年医師国家試験に合格し、昭和三三年一〇月被控訴人医院を開業した。)の診察を受けた。右初診の際、被控訴人は、控訴人から右のような症状についての説明があり、また、明室の状態での眼部細隙灯顕微鏡検査をも行い診察した結果、控訴人の左眼の結膜は充血していたが、角膜は正常であったので、流行性角結膜炎と診断し、クロマイとデキサメサゾン(いずれも点眼剤、そのうち、クロマイは抗生物質として混合感染の予防、デキサメサゾンは前示のようにステロイドホルモン剤として消炎作用及び角膜炎発症阻止の各効果がある。)を投与した。

2  控訴人は、昭和五〇年二月二八日、同年三月六日、一一日、一七日、一八日にそれぞれ被控訴人医院に通院して受診し、その間同様の投薬を受けた。被控訴人医院では、同月一七日以降流行性角結膜炎の部分症である点状表層角膜炎の発症を予防するため、右投薬に追加して角膜の栄養補給及び保護に効果のあるビタミンB2の皮下注射をしたが、被控訴人は同月一九日細隙灯顕微鏡検査を行ったところ、控訴人の左眼の角膜表層に点状の小混濁の発生が見られたので、点状表層角膜炎の発症と認めた。控訴人は、同月二〇日、二四日ないし二八日の毎日、三一日、同年四月一、二日にも被控訴人医院に通院して受診し、その間同様の投薬及び処置(すなわち、クロマイ及びデキサメサゾンの点眼剤投与並びにビタミンB2の注射)を受けた。そのうち、同年三月二八日及び同年四月二日には被控訴人が細隙灯顕微鏡検査を行い診察に当たったところ、同年三月二八日の際は、右点状混濁がより鮮明になっており、同年四月二日の際は、円形の丸みを帯びた混濁が角膜中央部に広がり、炎症が角膜実質に及んで混合感染の疑いが生じてきたので、更にステロイドホルモン系の内服消炎薬デカドロンを四日分追加投与した。

3  被控訴人は、同月四日控訴人を診察し細隙灯顕微鏡検査を行ったところ、角膜の混濁がより深く大きくなってきたように見えたので、ヘルペスビールスの混合感染を疑い、デキサメサゾンの投与を中止し、抗ビールス剤で角膜ヘルペスに有効なIDU点眼剤の投与に変え、これに従前どおりクロマイの点眼剤の投与とビタミンB2の注射を行い、次いで同月七日に控訴人を診察し細隙灯顕微鏡検査を行ったところ、角膜の混濁が更にやや深く大きくなってきたように見えたので、同日及び翌八日にも同様の投薬及び処置をした。しかし、同月九日には、控訴人からIDUが眼にしみるとの訴えがあり、細隙灯顕微鏡検査によってその投薬効果があがっていないことを認めたので、クロマイ及びIDUの投与に代えて、コリマイC及びタチオンの点眼剤及びタオチン三〇〇ミリの内服薬を投与した。

4  控訴人は、被控訴人医院で通院治療しても症状が好転せず、かえって同年三月三一日ころからは左眼の疼痛や羞明が強くなってきたため、前示のとおり同年四月一〇日佐藤医院に転医し、佐藤邇医師の診察を受けた。同医師は、流行性角結膜炎は伝染性が高いのに控訴人の右眼に異常が認められず、また、流行性角結膜炎であれば治る時期にきているにもかかわらず左眼角膜の混濁が強く視力も低下していることから、樹枝状ヘルペスを疑い、カルテにもその旨記載した。なお、右初診の際、控訴人の耳前リンパ腺には圧痛が認められ、混濁は角膜全体に丸く広がり、樹枝状を呈してはいなかった。同医師は、同日以降IDU軟膏を使用して治療を継続したところ、同月二一日ころ左眼角膜の前示混濁が樹枝状の潰瘍の様相を呈してきたので角膜ヘルペスを確信し、その後控訴人が激しい痛みを訴えるようになったこともあり、同月三〇日から同年五月一〇日まで控訴人を入院させて治療した。控訴人は、同医院を退院した後の同年六月一三日以降は国立相模原病院にも通院して角膜ヘルペスの治療を受けたが、同病院の医師も混合感染の疑いがある旨診断している。

以上の事実が認められ〈る〉。なお、被控訴人は、初診の際控訴人の耳前リンパ腺の腫脹を確認した旨供述するが、〈証拠〉によれば、耳前リンパ腺の腫脹は流行性角結膜炎にかなり特徴的な症状であって、それが認められる場合には一般的にはカルテに記載する例が多いにもかかわらず、被控訴人のカルテ(〈証拠〉)にはその記載のないことが認められることに照らし、被控訴人の右供述部分は直ちに措信することができず、他に右供述部分を支持する証拠はない。

三右認定の事実を前提に、被控訴人の債務不覆行責任について判断する。

1  最初に、被控訴人の前示初診時における診断が、角膜ヘルペスを流行性角結膜炎と誤診したものと認められるか否かにつき検討するに、〈証拠〉によれば、一般に、流行性角結膜炎はアデノビールス八型に感染して発病するが、四ないし六日の潜伏期ののちに球結膜充血で発症し、結膜炎の進行とともに眼瞼腫脹し、急性偽濾胞性結膜炎となり、これが一二ないし三四日間持続後消褪するが、その間耳前リンパ腺腫脹のみられることが多く、また、八〇パーセント以上の発生率で角膜点状混濁が発生するが、それは結膜炎の発症を第一病日とした場合第六、七病日以後(症例により角膜所見の発生の時期にはかなりの幅がある。以下同じ。)角膜表層に上皮性の点状混濁が発生し、次に第九ないし第一六病日、症例によっては第三〇病日ころに上皮下点状混濁が出現し(それが流行性角結膜炎の部分症である点状表層角膜炎と呼ばれる。)、この上皮下点状混濁は一六才以上の例では発生の二週間後あたりから消失し始め、三か月で三九パーセントの例が消失し、最も長く残存した例では五年間も認められたものもあることが認められ、右事実に照らすと、控訴人の前示症状及び経過は流行性角結膜炎のそれに合致して矛盾するところがなく、また、〈証拠〉によれば、流行性角結膜炎では前示のとおり結膜充血によって発生し、のちに角膜に症状が移行するのに対し、角膜ヘルペスでは、幼児型(これはヘルペスビールスの初感染によって起こるが、成人がこれに罹患することは極めて稀である。)を除き、角膜に直接発症すること、流行性角結膜炎における角膜表層の点状混濁、角膜ヘルペス(右幼児型を含む。)の樹枝状潰瘍は、そのいずれであるかを見分ける特徴的な症状であって、経験のある医師であればその識別は容易であること、なお、耳前リンパ腺腫脹は、流行性角結膜炎における特徴的な症状ではあるが、その多くに現われるという程度のものにすぎず、角膜ヘルペスであっても幼児型の場合には現われるのであって、両者を識別する決定的なものではないこと、流行性角結膜炎は、ビールスの感染力が強く、一眼次いで他眼に発症する例が多いが、片眼に止まることも臨床的にみて稀なことではなく、他眼に発症した場合も軽症に止まることが多く、その痕跡を止めないこともあり、他眼に発症せず又は発症の結果が見られなかったから流行性角結膜炎ではないと断定することはできないことが認められ、右事実に照らすと、前示のとおり控訴人の左眼角膜は初診時においては正常であり、その後通常の経過をたどって角膜表層に点状混濁が発生したのであるから、控訴人は初診時には流行性角結膜炎に罹患していたものと認めるのが相当であり、被控訴人の前示初診時の診断に誤りがあったものとはいえない。

2  次に、被控訴人医院で治療中控訴人の左眼に既に角膜ヘルペスが発症しており、かつ、被控訴人らにおいてこれを見落とし適切な治療をしなかった過失が認められるか否かにつき検討するに、前掲各証拠によれば、角膜ヘルペスは単純ヘルペスビールスによって起こり多くは片側性の疾患で、角膜上皮に浮腫と瀰漫性滲潤が生じ、やがて滲潤は線状特に濃い所ができて浅い潰瘍となり樹枝状を呈し、強い充血と激痛を訴えるに至ること、通常、人体で二種の異なったビールスが同時に増殖することはないので、控訴人の左眼に流行性角結膜炎が進行していた段階で角膜ヘルペスが併発していたことは考えられず、流行性角結膜炎が終息に向かい、そのビールスの勢力が弱まった段階でステロイドホルモン剤の投与に誘発されて角膜ヘルペスが発症したと考えられること、点状表層角膜炎の点状混濁は混合感染が起きず流行性角結膜炎に止まる限りにおいては、点状混濁がつながって円型となることはなく一定期間経過後吸収されて消失することが認められ、右事実に照らすと、控訴人の角膜に円形の丸みを帯びた混濁の発症の認められた昭和五〇年四月二日の少し前ころには角膜ヘルペスが発症したものと推定されるが、〈証拠〉によれば、一般に角膜ヘルペスを発症しても、樹枝状潰瘍を形成するに至るまでの症状は、流行性角結膜炎のそれときわめて似ていること、ステロイドホルモン剤の投与は一般に角膜ヘルペスを誘発するものの、流行性角結膜炎に続いて角膜ヘルペスの発症した臨床例はきわめて少ないことが認められるのであって、被控訴人が同月二日に至るまで混合感染に気付くことができず、同日以降これに気付きながらも角膜ヘルペスと断定することのできなかったことはやむをえないものといわざるをえず、被控訴人の処置に過失があったものとはいえない。

四よって、その余について判断するまでもなく、控訴人の本訴請求は理由がないから、本件控訴を失当として棄却し、訴訟費用の負担について民事訴訟法九五条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官丹野 達 裁判官加茂紀久男 裁判官河合治夫)

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